2015年08月31日

展覧会を見て思うこと。

8月ももう終わってしまう。
今年は特にお盆休みもなく、どこへ行くでもなく、
この季節特有の開放感とは裏腹に
淡々と日々を過ごしてしまったように思う。
そんな中、夏休みの宿題のような感じで、
気になりつつもずっとほったらかしにしていた展覧会に
ようやく行ってきた。

「金山康喜のパリー1950年代の日本人画家たち」
世田谷美術館

正直に言って、この人のことは全く知らなかった。
ただ区内のポスターを見る度に、
そのブルーの複雑な色彩と
デフォルメされた静物たちが織りなす洒落た画面に、
何か心の奥をざわつかせるものがあった。

さて、実際に行ってみると
やはり見ておいて良かったと思う。

金山は25歳の時に渡仏。
藤田嗣治や当時パリに留学していた
他の日本人画家と交流しながら活動し、
順調に画家としての道を歩んでいた。
しかし一時帰国のつもりで滞在中だった日本で
33歳の若さで急逝してしまう。

展覧会では金山のパリ以前と以降の両方の作品を見ることができた。
両者を見比べると環境というものは
やはり作家に多大な影響を与えるものだと、
つくづく感じてしまう。
静物画というスタイルは変わらないものの、
その色彩の透明感が渡仏を境に全く違うのだ。

修行のためにパリまでやって来て、
同じ思いを抱いて共に生活した仲間と交流し、
そこで触れた新鮮な空気、期待と高揚感などが、
絵具の透明感とより洗練された構図として
作品に表れたのではないだろうか。

数年前の自分と重ね合わせ、解説文に登場する懐かしい地名を読みながら、
もし金山が生き続け、その後もパリに留まっていたとしたら、
一体どんな作品を生みだしていたのだろう?と想像してみる。

さらなる発展を遂げて傑作を描きつづけたのか、
或いはこの時期が最高潮で
あとはマンネリとの戦いに苦しんだのか、
結果は知る由もない。

一つのスタイルを維持し、繰り返し描き続けることは
探求という点ではとても大切な姿勢である。
反面、そこから抜け出せず伸び悩んでしまう危険性を孕む。
その狭間で揺れ動きながら、
それでも描き続けることが絵描きの運命なのかもしれない。

ここ最近、不安にも似たモヤモヤとした気分の正体が
何となくわかったような気がする。
果たして自分はどうなっていくのか。
答えを見つけるには、やはり描くしかない。
夏休みの最後に大きな宿題を与えられたようだ。


孫崎
posted by 神田絵画教室 at 17:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゴーヤとそうめん

F3.jpg
「さくらんぼ」F3号 油彩


この夏はゴーヤとそうめんばかり食べていた。

暑くて食欲がなくても、そうめんなら食べたいという気持ちになる。
夏のそうめんは有難い。

そうめんだけでは栄養が偏ってしまうので、いつもゴーヤを炒めて、一緒に食べている。
ゴーヤは五月から植えているのだが、ゴーヤが生い茂り過ぎて、寝室の風が通らず、グリーンカーテンの意味がなかった。
ゴーヤの成長がとても早く、多いときは一日に5本収穫している。
先日は朝はゴーヤのスムージー、お昼はゴーヤチャンプルーとそうめん、夜はゴーヤの肉巻き、といった献立である。

涼しくなって、ゴーヤがあまり大きくならず、全体に黄色くなってしまって、さびしい。


蔵野春生
posted by 神田絵画教室 at 17:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

ぼんやり・・・その一

松本竣介(1912〜1948)という絵描きさんがいます。作品の中に「Y市の橋」というのがある。魅せられて、出来ればその現場に立ってみたいと思った。かれこれ30年前の話である。

教室の生徒さんに横浜の港風景を描きすすめているひとがいます。勝呂さんです。勝呂さんは生粋の横浜ッ子で、「Y市の橋」はよくご存知です、場所も知ってますよと私に教えてくれた。勝呂さんはプロのガイドのよう。橋のことは言うに及ばず街の概要や変遷を印象づけて話してくれる。たまらず私はまるで修学旅行のようだと叫んでしまいました。

東神奈川駅から始まり、横浜、桜木町に向かう行程予定である。我々の歩行の軌跡は海岸線に沿って動いたので、烏口定規で引いた太い弧を描くように進んだ。冬日和にかかわらず温かく優しく撫でる様な浜風は、私は少しエロチックにも感じた。

手前奥が現在の月見橋。「Y市の橋」を求めてここまで来たが、描かれた当時の面影はない。正確には1944年5月29日の空爆で焦土となり、跨線橋の梁も落ちてこの日消えたのだ。

今、私はここから隣りのJR横浜線の線路を仰ぎ見た。架線向こうの空まで見やった。

私は何を見ているのだろう。無意識の世界なのか恣意的なのかよく分からないが、昔からぼんやり見ている、ぼんやり考えている、ぼんやり思っている。

月見橋を去る時に、私の胸の内は、また来るねと言う。月見橋に、自分に、一体誰に言っているのだろうか?過去も現在も未来もぼんやり見てみたいのは変わらないのに。

佐藤
posted by 神田絵画教室 at 19:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする